表現の自由は批判の自由

 長文を書くニーズのブログなんですがそれほど長文でないネタで一つ。
 結論から書くと表現の自由は批判の自由なので批判に対して表現の自由では逃げられない、というお話です。

 基本的に人権の一部として「表現の自由」は無制限に認められるんですが(今法改正で無制限でなくなる可能性がありますね)、なにか過激な表現をして批判が集まった時に「自由にやれないこんな国じゃ ポイズン」と言い出す人が結構な割合でいまして、根っこがズレているな、と思うのです。
 自由にやった結果批判が集まっているのであって、表現の自由というのは批判されない特権を保証するものではないんですよ。

 なぜかというと、批判というのは「一つの作品に対して自分が思った事を表現する」事なので、批判自体が表現なんですよ。そして表現は表現の自由で守られるので、批判は表現の自由で守られるものなんです。批判していいんですよ。ただ、その批判が批判されないとは保証されない。

 同じように、批判が批判されない保証がないように、表現も批判されない保証はないんですよね。
 なので、過激な表現をしたければすれば良い、それに対し批判したい人は表現の自由があるので自由に批判すればいいんです。それだけの話です。

 表現する人は「表現の自由」を持ち出すのであれば、それは「批判の自由」を担保する概念なので、批判される事自体は受け入れなければならない。

 ただ、どんな批判でもその「内容」を受け入れなければならないわけではありません。批判される事自体は受け入れなければなりませんが、脅迫を放置する必要はありませんしその場合は公的権力に頼るべきです。
 しかし犯罪ではない範囲の批判はされる事を受け入れるべきで、「自由にやれないこんな国じゃ」なんて言ってる場合じゃないのです。あなたがすべきなのはそういう批判をしてくる人を殴り倒すだけの威力がある表現をすべきであって、「表現の自由」を持ち出してお茶を濁している場合ではないのです。

 もちろん批判にも批判が伴うので批判は「一方的に殴る権利」ではありません。むしろ殴りに行っている分普通の表現よりも殴り返される危険性が高い表現です。しかし表現なので自由なんです。犯罪を犯せば捕まりますが、その範囲でなければ批判は無制限に許されるべきものなのです。

 表現と表現に対する批判は一つのコインの表裏なので、どちらか片方だけ都合よく使いたい、という訳には行きません。批判されたくなければ発表しなければいいのです。発表したからには他人の批判という表現を認めなくてはならない。
 それができない不覚悟な人であれば、そもそも発表をすべきではないんですよ。どうしてもしたいなら誰にもつながっていないノートに書いてしまっておけばいいんです。それだって立派な表現です。

 このあたり表現の自由という概念が柔軟性が高くて色々なものに応用できるので便利に使いたい人がいる反面、批判は受けたくないという間違った自由を振りかざす人がいるので残念ですよね。

 なので、表現の自由では批判からは逃げられません。残念でしたね。

この記事を書いた人 Wrote this article

如月翔也

 ガジェットとAppleとTRPGが大好きな中年男です。文章をとにかく書くのが好きなので毎日のように色々なブログで文章を打ちまくっています。もし何か心に引っかかるものがあれば私のTwitterをフォローして頂けると更新情報が流れます。