表現の不自由展が脅迫で閉鎖に追い込まれたのを見て、ちょっと思った事を。
原則として、「表現は何をやろうが自由」「表現を規制するのは許されない」「表現に良い悪いはない」「どんなクソな表現でも守るべき」という話です。
そもそも表現の自由というのは批判されるのを覚悟の上でなら何を表現してもいいという概念で、表現は何をやろうが自由です。人の写真を燃やしてもいいし蝋人形を踏んづけてもいいんです。それが表現なのであれば。ただ、やるのは自由ですが批判が来るのは当然で、そこを踏まえないで表現するのはオススメできません、というお話です。
表現の自由は内心の自由と一緒で、何を思おうが何を考えようが「実行に移さなければ」罪はないという類いの物なのでそこを罪にするのは道理が通らず筋が悪いので原則として「表現は自由」であるべきです。ヘイト発言すら本来は自由なんですが、ヘイト発言は予約されたクレームがあるという話なのでそれでもヘイトをやりたい人はやればいいんじゃないでしょうか。
そして表現には原則として良い悪いはありません。どんな崇高な言葉を集めた聖典であれ、どんな卑猥なものを収めたデジタルデータであれ、表現に良い悪いはなく、そして表現に上下はありません。
結果的に「多く人に受け入れられた表現」と「数多くの人を不快にさせた表現」では「表現」に上下はなく良いも悪いもないのです。もちろん商業的に前者を売り込んで後者を見なかった事にするのが商業主義ですが商業主義とは別の次元として表現は自由でなくてはなりません。
表現が自由でないと、内心が自由ではなく、それは「お前はこう思っているに違いない!だから罰する」という無理筋を避けられないのです。もちろん表現をするのは行為ですから表現した結果皆から嫌われるのはあるかも知れませんが、それを踏まえて表現するのは自由なのです。
そして、表現の自由を守る時、考えなければならない事があります。
それは「こんな表現を守らなければならないのか?」と思うような表現こそ、意図して守らなければならないと言う事です。
「こんな素晴らしい表現はもっと知られるべきだ!」という表現は、その時点で守られていると言っても過言ではありません。人間気に入ったものは守ってあげるものです。
それに対し「こんなクソなものがあるのか」と不愉快になるような表現は、嫌われる表現なので守られないのです。しかし表現は自由であるべきで、表現の自由を本当に守る意味では「守りたくないクソな表現」こそ守ってやらなければ大前提である「表現の自由」は守られないのです。
まあそれを踏まえて個人的に天皇の写真を燃やすのはヘイトなのでクレーム予約、従軍慰安婦の像はヘイトではないので「発表する場」は見逃しつつ「史実を見直すべき」と主張、津田はクソ表現者としてマークしつつ次の表現の場は「商業的には与えない方向性で調整」が正解なのかなー、と思います。
そんなにやりたい表現なら商業から切り離されたところでやってね、という主張は表現の自由を侵すものではないので。
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如月翔也
ガジェットとAppleとTRPGが大好きな中年男です。文章をとにかく書くのが好きなので毎日のように色々なブログで文章を打ちまくっています。もし何か心に引っかかるものがあれば私のTwitterをフォローして頂けると更新情報が流れます。