手段が制限されると情熱が失せる;アートが無制限であるべき理由

 色々あって一週間近く自慢のMacBookProが使えない状態にあったのでこのブログは放置でした。他のブログはiPadを使って更新したんですが義務感からの更新だったので情熱とは程遠く、そして情熱を注げないのであればこのブログである必要はないので放置でした。放置です。

 ぶっちゃけた話をすると普通に文章を入力するだけならスマホでもiPadでも問題ないですし、フリック入力は下手したらキーボード入力よりも早くて安定した入力方法なのでキーボードを打つよりも効率がいい可能性まであるんですが、この考えながらキーボードを打つという作業が「自分にとって情熱を注ぐのに適した形」だと思っていて、そして実際に情熱を注ぐのであればキーボードからの入力が一番気持ちよく(効率的に、ではなく)できるんですよね。

 これって情熱の行きどころ、つまり作業のモチベーションである部分なのでそこが制限されると何も出なくなる部分なので、ここを制限されると本当にキツいんですよ。出したいものがあるのに出口が詰まっていてスッキリ流れていかないという事なので、アウトプットすべきものが洪水を起こすのです。

 アートが無制限であるべき理由もここにあって、人が人として表現する事を保証する以上手段は制限できないんですよね。目詰まりを起こすので。出したものの質の話ではなくて、出す方法には貴賤がないという話です。そして方法に貴賤がない以上出したものにも貴賤はなくて、ただ「その人にとって」受け入れられる表現と受け入れられない表現があるだけの話なのです。
 まあその「その人」の規模があまりにも大きすぎると一部の特権階級相当になるので「ヘイト表現」などとまとめられて叩かれるんですけども、本来の話をすると「そう思った」事自体を咎めるのが無理筋なのでヘイト表現を規制するのも無理筋です。
 ただまあ表現者自身にも「その表現が回り回って自分を殺す」可能性を想定しての言動はなかなか難しいでしょうから、「これ系の表現はいかんですよ」という線引きはあった方がいいのかも知れないですけどね。

 まあ実際にアウトプットが洪水を起こした結果脳みそと経験が更地になって今最初から学習し直しに近い感じなんですけど、もう一回出さないといつまでも詰まり続けて脳みそを焼き切る結果になるので、ちょっともう一回やり直そうと思います……。

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如月翔也

 ガジェットとAppleとTRPGが大好きな中年男です。文章をとにかく書くのが好きなので毎日のように色々なブログで文章を打ちまくっています。もし何か心に引っかかるものがあれば私のTwitterをフォローして頂けると更新情報が流れます。